進め!大阪戦争軍事遺跡探検隊【2/2】
待て話せばわk(ry)
言い訳など見苦しい。
さぁ、いくぞ!
さて、デザートの話でしたね。
デザートに行くのもいいがその前に寄り道を。

ここは元火薬弾丸置き場だったそうです。
大阪公園城内詰所と読めますね。
手前のは大阪夏の陣400年の旗ですね。私は、去年これが開催されていると勘違いしていたものです。
もう少し進めば、こんなものが!
しかし、蚊が多いな。少し足踏みしながらお話を聞いていました。

奥に見える給水管。大阪砲兵工廠の時代のものらしですが、記事を書くのに色々なサイト様を拝見していたら、これ途中から新しいものになってないかと書いてらっしゃる方がいました。
ちょうど、エルボで曲がった後のまっすぐなところです。い、言われてみれば確かにそうかもしれん・・・
当時のマークがあれば証拠になるのですが・・・・遠視には辛い。ってか、こんなに遠いと双眼鏡でもないと・・・双眼鏡か(財布を開きながら)
この緑色のとこだけ撮影したら異世界ですね。やってみたけど、本当にナニコレ珍百景みたいになったのでちゃんとした方載せました。
ほんと、蚊が多い!次行きましょう!
少し歩いていくと、何やらこれもじゃないか!?と思われる建物を発見!
結構後ろを歩いている方々もいらっしゃったので、少し確認して戻ればはぐれない!と思い見に行きました。
うーん、しかしよくわからない。そして、振り向けばこっちに人流れてきてまして・・・
おぉ、やっぱり気になりますよね!
本当に迷子になる前に集団へと戻ります。

実は、ここが大阪砲兵工廠の正門となります。正面から撮影すると当日休日と言う事で人の顔がはっきり写るのでこの位置で撮影しました。

確かに海底ありますね。
この門の前にあるのが追手門小学校です。
この小学校は当時、陸軍の中で偉いさんの息子だけが入学できた小学校だそうです。
偉いさんでも階級があるから、小学生同士でも気を使い合いしていたのかと思うと小さな社会だ。
そういえば、小学生時代の写真が出てきたのですが、よく虐められずに済んだもんだという感じでした。

中に入ると、こんなものが!今は、危ないそうなので廃屋状態です。
ここも当時使っており本来の役目を終えて多目的で使われて、老朽化ですね。
しかし、ここまで頑丈にバリケードされると見たくて仕方ない。
ここの正門から歩いて分かったのですが本当かなり広い軍事施設だったんだなと思います。
京橋駅から歩いて多さ場公園抜けて距離が凄い。
お待ちかねのデザートがこちらになります。

化学分析場!!
さて、皆様。実は、依然紹介した旧尼崎警察署をお覚えでございますでしょうか?
では、設計者はお覚えでございますでしょうか?
実はこの化学分析場は同じくして置塩章さんです!
完璧に受け売りですがw
そして、注目していただきたいの屋上辺り。見てください、これこそ人工物と自然が作り出す芸術ですよ!
ツタが凄い良い仕事しています。そして、コンクリがその色を強調させる役目を見事につとめてますね。
これが、たまらんのだよ!
ここを見学するのは難しそうです。えらい目に合うんだとか・・・。入ってみたい気はあるが、あきらめるしかないですね。
さぁ、ここまで見たら最後は森ノ宮駅を目指すのみ。
森ノ宮駅に着いた頃はおそらく六時を回っていたのだろか?途中で、解散する人たちもいました。
いや、私は帰らないよ!私は、この為に明日も休みとってますから!
最後は線路が見える位置まで移動。

わざと、分かりやすいように電車が通った時に撮ったのですが、分かりますか?今電車が通っている線路の手前、もう一つ線路があるんです。
今は廃線ですが、当時これが使われており、来た道に駐輪所があるのですがそのあたりまでずっと続いています。
当時の電車のアナウンスも大阪砲兵工廠前を通るときは客に見ないようにみたいなのを気遣って流していたそうです。
でも、見えちゃうんでだとか・・・まぁ、それだけ正々堂々製造していたってことでいいのでしょうか。
知識が無いので、こうとは言い切れないのが悔しいですね。
以上で、大阪戦争軍事遺跡探検隊の記事は終了となります。
更新が二週間程、お遅れしたことを深くお詫び申し上げます。
更新していない間、一枚写真なら投稿できそうだったのですが、記事を書く体力がありませんでした。
でも中途半端で終わらせたくないので、頑張りました!
次回も頑張って書いていきたいと思いますのでよろしければよろしくお願いします!
※今回の反省点※
・下調べをしていない
・そのことに対しての知識が無い
・下敷き無いと書きづらい
次回はこの反省点を解決したいと思います。
真ん中は難しくても、上下は出来るはずだ。
そして、下の件についてはもう対策を考えました。あとは、一度ためしで使っていけそうならしっかりとちゃんとしたの作るだけですね。
では、次回のレポートまでまたまったりと一枚写真更新したいと思います。
言い訳など見苦しい。
さぁ、いくぞ!
さて、デザートの話でしたね。
デザートに行くのもいいがその前に寄り道を。

ここは元火薬弾丸置き場だったそうです。
大阪公園城内詰所と読めますね。
手前のは大阪夏の陣400年の旗ですね。私は、去年これが開催されていると勘違いしていたものです。
もう少し進めば、こんなものが!
しかし、蚊が多いな。少し足踏みしながらお話を聞いていました。

奥に見える給水管。大阪砲兵工廠の時代のものらしですが、記事を書くのに色々なサイト様を拝見していたら、これ途中から新しいものになってないかと書いてらっしゃる方がいました。
ちょうど、エルボで曲がった後のまっすぐなところです。い、言われてみれば確かにそうかもしれん・・・
当時のマークがあれば証拠になるのですが・・・・遠視には辛い。ってか、こんなに遠いと双眼鏡でもないと・・・双眼鏡か(財布を開きながら)
この緑色のとこだけ撮影したら異世界ですね。やってみたけど、本当にナニコレ珍百景みたいになったのでちゃんとした方載せました。
ほんと、蚊が多い!次行きましょう!
少し歩いていくと、何やらこれもじゃないか!?と思われる建物を発見!
結構後ろを歩いている方々もいらっしゃったので、少し確認して戻ればはぐれない!と思い見に行きました。
うーん、しかしよくわからない。そして、振り向けばこっちに人流れてきてまして・・・
おぉ、やっぱり気になりますよね!
本当に迷子になる前に集団へと戻ります。

実は、ここが大阪砲兵工廠の正門となります。正面から撮影すると当日休日と言う事で人の顔がはっきり写るのでこの位置で撮影しました。

確かに海底ありますね。
この門の前にあるのが追手門小学校です。
この小学校は当時、陸軍の中で偉いさんの息子だけが入学できた小学校だそうです。
偉いさんでも階級があるから、小学生同士でも気を使い合いしていたのかと思うと小さな社会だ。
そういえば、小学生時代の写真が出てきたのですが、よく虐められずに済んだもんだという感じでした。

中に入ると、こんなものが!今は、危ないそうなので廃屋状態です。
ここも当時使っており本来の役目を終えて多目的で使われて、老朽化ですね。
しかし、ここまで頑丈にバリケードされると見たくて仕方ない。
ここの正門から歩いて分かったのですが本当かなり広い軍事施設だったんだなと思います。
京橋駅から歩いて多さ場公園抜けて距離が凄い。
お待ちかねのデザートがこちらになります。

化学分析場!!
さて、皆様。実は、依然紹介した旧尼崎警察署をお覚えでございますでしょうか?
では、設計者はお覚えでございますでしょうか?
実はこの化学分析場は同じくして置塩章さんです!
完璧に受け売りですがw
そして、注目していただきたいの屋上辺り。見てください、これこそ人工物と自然が作り出す芸術ですよ!
ツタが凄い良い仕事しています。そして、コンクリがその色を強調させる役目を見事につとめてますね。
これが、たまらんのだよ!
ここを見学するのは難しそうです。えらい目に合うんだとか・・・。入ってみたい気はあるが、あきらめるしかないですね。
さぁ、ここまで見たら最後は森ノ宮駅を目指すのみ。
森ノ宮駅に着いた頃はおそらく六時を回っていたのだろか?途中で、解散する人たちもいました。
いや、私は帰らないよ!私は、この為に明日も休みとってますから!
最後は線路が見える位置まで移動。

わざと、分かりやすいように電車が通った時に撮ったのですが、分かりますか?今電車が通っている線路の手前、もう一つ線路があるんです。
今は廃線ですが、当時これが使われており、来た道に駐輪所があるのですがそのあたりまでずっと続いています。
当時の電車のアナウンスも大阪砲兵工廠前を通るときは客に見ないようにみたいなのを気遣って流していたそうです。
でも、見えちゃうんでだとか・・・まぁ、それだけ正々堂々製造していたってことでいいのでしょうか。
知識が無いので、こうとは言い切れないのが悔しいですね。
以上で、大阪戦争軍事遺跡探検隊の記事は終了となります。
更新が二週間程、お遅れしたことを深くお詫び申し上げます。
更新していない間、一枚写真なら投稿できそうだったのですが、記事を書く体力がありませんでした。
でも中途半端で終わらせたくないので、頑張りました!
次回も頑張って書いていきたいと思いますのでよろしければよろしくお願いします!
※今回の反省点※
・下調べをしていない
・そのことに対しての知識が無い
・下敷き無いと書きづらい
次回はこの反省点を解決したいと思います。
真ん中は難しくても、上下は出来るはずだ。
そして、下の件についてはもう対策を考えました。あとは、一度ためしで使っていけそうならしっかりとちゃんとしたの作るだけですね。
では、次回のレポートまでまたまったりと一枚写真更新したいと思います。
進め!大阪戦争軍事遺跡探検隊【1/2】
タイトルに関しては、ちょっとやりたくて仕方ない進め!キノピオ隊長のパロです。
まぁ、そんな事をはさておきだ。
今回は6月21日に行われたJ-heritageさん主催【大阪戦争軍事遺跡探検隊】に参加させていただきました。
京橋駅に集合と言う事で、前々職で最後によく利用していた駅だったのでまた自信気に出発。
広いけど、どこ集合かと思いスマートフォン方にウロウロとしていると前回からのツアーの方と合流し一緒に待っていました。
しかし、今回はなんと37名という大人数の為広い場所に集まっていたようです。
前畑温子さんが来てくださりありがとうございました。
そして総勢37名という多さにJ-heritageさんの恒例となっている自己紹介は割愛。
でも、お会いしたことがある方々がいらっしゃりちょっと一安心。
あ、今回も私は神子畑Tシャツ来てました。
前畑洋平さんは軍艦島のTシャツでしたよ!ワンダージャパンの時にTシャツは見た事あったのですが本物初めて見てちょっと感動。
あ、その軍艦島のTシャツの話は後ほど。
話を戻しまして今回お話をしてくださったのは三宅教授です。
後で聞いた話ですが、小学生教師向けに似たようなツアーを一日で2回行ったそうです。
まぁ、どれくらいの距離があるかもまた後ほどです。
お天気も良く休日と言う事もあり、やはり都会は込んでいらっしゃった。
場所を代えて広い場所へ。

そこから見えるはテレビ局やビルが見える場所。
実はここが大阪砲兵工廠があった場所なのです。
大阪砲兵工廠って?
となる方もいらっしゃるのではないでしょうか?・・・いや、正直に言いましょう。
実の話をしますと、私は今回第四師団の名前しか知らず参加してます。
よく、知識がなく恥ずかしい思いをすると聞きますが、知識が無く知らない知らず参加したことを悔しく思います。
何故、事前学習をしないのか。それは、もう学生時代に見たくて仕方なかった第四師団しか頭になかったからであろう。
はるかよ、今から学ぶべし。
説明させていただきますと、軍事工場です。
太平洋戦争(1941年)~終戦(1945年)まで主に大口径の火砲兵器や弾丸、重機製造を似たなったアジア最大規模の施設です。
そして、戦前中の日本で重工業分野におきトップクラスの技術と設備をもっており他にも宮公庁や民間からの要望を受け兵器以外の金属製造もしていました。
働いている職人さんを職工さんと呼んだそうで当時とても誇れるものだったそうです。
つまり「うちの、お父ちゃん大阪砲兵工廠の職工さんやねん!」って自慢できたそうです。
私は最初に話を聞いたとき、やっぱり隠してかないといけない事なのかと思っていたので驚きました。
大阪砲兵工廠となったのは1879年(明治12年)であり1870年(明治3年)に造兵司として設立された様です。
明治~昭和の建物となります。
今や跡地って言われても残っているものも少なく現地に行ってもあまりピンと来ないと思います。
大阪公園一部や大阪ビジネスパーク、JR森ノ宮の辺りまで広がってました。
その頃の地図には環状線では無く城東線と書かれています。
終戦を告げられた8月15日の前日、8月14日に大阪砲兵工廠はへ空襲がありました。
13日に最終宣告としビラがまかれたそうです。
そのため、一般の職工さん達は休みであり責任者や偉いさんがのこっていました。
B-29の攻撃により、大阪砲兵工廠は80%が崩壊し、死者382名と報告されていますが総数は分かっていないようです。
その時の流れ弾が電車に乗っていた人々を非難誘導していた京橋駅近くに落ちて約500名の方が亡くなっています。
実際のところ、何人亡くなられたか分かっておらず推定です。

テレビ局へ向かう手前の青色の歩道橋を渡らず歩道を歩いて行った場所にひっそりと慰霊碑がります。
三宅先生が戦後たてれた場所がここしかなかったのかもしれないとおっしゃっておりました。
確かに、工廠が80%崩壊と言う事から周りの状状況も察することが出来ますね。
慰霊碑の年代は別々であり毎年慰霊祭が行われいるそうです。

左横には立札がありました。
少し戻って、歩道橋を渡り進みます。
このあたりも、工廠跡ですって教えてもらいながら歩きますが見上げ首が痛くなるほどの大きな高いビル。
大阪住みですが大阪の田舎に住んでいる人間には、目が点になります。
しかし、暑い。
帽子はやっぱり必須だなーと思っていると、遠くに大阪城を発見。そして、少し雲行きが怪しい。
本当なら今日は雨予報であり今朝は雷がなっていたのである。
体調的には曇ってる方がいいのだろうけど、写真を撮るとなれば雲はノーサンキュー!
まぁ、それでもビルの青い空が反射しているところ一雨はなさそうである。

そして、見えてくる何か怪しげなモノ。
だいたいの方が察している。あれは、もしや・・・!
前畑温子さん「はい!それでは、おやつタイムにしたいと思います!」
そして、始まるおやつタイム!
何か気になるが、おやつ!
ツアーのおやつは、前畑温子さんが決めてくださっているようです。
さぁ、今回のおやつは~

君が代カステーラ!
東京焼きと言って全面焼いているのです。
カステラといえば、長崎!ってイメージですが、どうやら豊臣に献上していたらしく卵のキミと君を掛けて君が代だそうです。
あぁ、すみません。手は気にしないで下さい。手は。
ちょっと休憩がてらに石段に座る。
そして、唐突に始まる脳内中二病。
ふっ・・・この農業・食品製造科の私を楽しまてくれるのか。
よろしい、かかってこい・・・!!
・・・う、美味い!!美味いぞ・・・!!(脳内ミスター味っ子)
カステラと言えばボソボソとし口の中に残るはずがさっぱりとし、味が濃く美味い・・・!!
前畑洋平んさん「はい、それでは残りのカステラをかけクイズ始めます!」
そして我に返る。
あぁ、食べたいがちょっと太陽にやられた。
ここは自業自得と見学側へ。

そしてここへつながる。
これは、なんでしょうかというクイズ。
これ、向う側ふさがっていますが、荷物運搬の出入り口なんですね。
鳥先輩が現在では門番してくださってます。お疲れ様です!
で、正解者は前畑温子さんとジャンケン!
一番、平和な方法だーと終わることには回復。
ばてるのも早けりゃ、回復も早いのである。
次は大阪城の方面を目指してあるき始めます。
あぁーそういや、高校生時代に「大阪人に今更大阪観光とかww」ってふざけてたなぁーとこのあたりで思い出し始めます。
そう、ほんの数年前にこのあたりを通っているのです。
そして、そのころは確か、第四師団という名前を知っていただけでどれがそうなのかどこにあるかなんて全く知らなかったのです。
というよりは、当時遺産にはそこまで興味が無かったっていうのが正しいかもしれません。
遺産では無く廃墟としてみたいのですね。

だから当時は、見向きもしなかったのでしょう。
砲兵工廠跡と書かれた石版。
三宅教授の話を聞くと、これは移動しここに来たそうです。
じゃ、なぜ移動したかというと、知っている人も多い建造物が関係しています。
大阪城ホールです。建設するときに移動されちょっとずれているのです。
大阪城ホールの建っている場所、そこも大阪砲兵工廠だったのです。

裏には説明が書かれいますね。横に立て看板を置いて※少し位置は異なりますって事と当時の地図とかあればもっと見てくれる人が増えるかなーとか思います。
今でこそ、なんだなんだ?と裏まで見るようになりましたが、学生時代は「あーどっかの会社の名前じゃない?主張激しいよなーw」とか言ってそうです。あぁ・・・それは恥ずかしい。
そういやこのあたりってランニングコースにもなっているのですね。
学生時代のはるか氏よ一つ言わせていただこう、後に悔いるのであると!
まぁ、私の学生時代の話はさておき。
どんどん進みます。
あれは、だいたい大阪城ホールの裏辺りでいいのでしょうか。
そこで当時の大阪砲兵工廠の写真を見せていただきました。


おぉ!貴重な写真ばかりだ!
白黒が当時の写真で、カラーは壊される直前、あるいはその途中でしょう。
三宅教授、当時急いで現場へ行ったそうのなのですが、付いた頃ちょうど解体が始まったそうです。
そして、当時ここで働いていた人達は自分ちが人の命を奪う兵器を作るという気持ちで作っていたのですかと聞いたところ、「全くもってそんな気持ちは無かった」とお話された様です。
用途は分かっていても、人の命を奪うとまで考えて作っていたわけではないのです。
学びが無い私が考察するのはどうかなと思いますが、良いものを作るっていう意識だったのかなとお話を聞いていておもったのが素直な感想です。
お話の後は休憩タイムです。
しかし、このあたりは蚊が多い。また石段みたいなトコに腰かけ荷物を下ろす。
今回、リュック型に変更したのですがそれでも右肩が痛い。いや、何時もよりまっしか・・・
なんて考えていたら、前畑洋平さんがお話に来てくださいました。
「ブログにこの前の尼崎の事書いてくれてありがとうございます」と。
いやいやいや!お礼を言うのはこちちらですよ!連れて行ってもらって!とコミュ障でどもっておりながらも産業遺産の記録の話を少々。
あぁ、なにやってんだちゃんと話せはるか!
ってやってる間に、次の場所へ。
さっきのふさがれた運搬トンネルの裏を見に行きました。

おぉ、見えない!いや、見えたんですが写真が悪くこちらを選択しました。
ってか、蚊!何回、私の血を吸うんだ!と早々と撤退。
なんか足首一周かまれてそうですw
ムヒもって来るべきだったと思いながら大阪城を目指します。

流石、休日。人がたくさんだ。
海外から来ている方をみて、そういえな大阪城は海外から観光に来た人のがっかりスポットって聞いたことあるなーと思い出しました。まぁ、だってさー、白の中にエレベーターついるんだもんね。
RCだったかな、だもんね。
2回くらい大阪城上っているはずなんだけど城というより博物館な気持ちだった。
なにより、私も幼少期城の中にスクリーンがあったことに軽いカルチャーショックを受けたものである。

いや、でもやっぱり迫力あるな!
そして、やっぱり、テンション上がるわ!とシャッターを切るはるか氏だった。
さて、今回ここに上りに来たわけじゃない。
大阪城の裏、えっと確かあれは受水槽の機械あった場所だったかな。ともかく、まず
一般の観光なら行くことのない場所であろうへ案内していただきました。

あ、いやこれは身長が足りないのではなく高いとこにあるんです。
この向うに水を溜めていた場所があるようです。
そして次は私の後ろにある大阪城が乗っかる石垣に話は変わります、

今回は分かりやすく赤で丸を付けてみました。
分かりますか、このデコボコになっているのが。
幼少期のはるか氏は、「積んだ人へたくそやなー。ってか遠足の絵大阪城書くのに石描くの面倒やん。」って描いているのを思い出しました。まぁ、絵に描くのは大変ですけど。
そして、これは石積んだ人が下手なわけじゃなく、このあたりに落ちた爆弾の振動や爆風でこうなっているのです。
建っているには問題ないそうなので、このままだそうです。

ここは一部どう考えても新しいですよね。
ここは修正したようです。しかし下からはめるってすごいですね。
ちょっと、ひやっとします。
そして、ぼやーっと歩いていると「リュックに変えたんですね!」
前畑温子さんが!そういや、受付して以来お話してないと三脚とかいろいろ教えていただきました。
そうなんです、実は三脚を持ってないという。デジカメの三脚はるんですけどね。
そうか、次は三脚だな。
ん・・・あ、あれは・・・!

お待たせしましたさっきから言っている第四師団でございます。
見た事ある!って方が多いですね。
そうですね、旧大阪市立博物館です。今日は休日ってこともあり中と入り口でお土産屋さんしてました。
大阪らしい土産がありました。

うん、これですよ。これ!
さぁ、これは何積みに・・・えっと・・・同じ面が向いているから・・・平積みだ!
って一人で感動。
そして、第二回おやつたいむ。

次は、おまんじゅう!
あ、手とファイルは気にしないでk(ry)
おぉ!おまんじゅう大好き!こしあんだ!美味い!
そして今回もあまりをクイズで!
今回は元気だったので参加しましたが惜しくもざんねん。
これ、本当美味い。君が代とセットで後で店しらべようと心にひそかに決めたのであった。

第四師団のなかです。おしゃれだな、この照明。
本当、入り口と入ってちょっとしか使われて居ないからもっと使い道ないかなーと。
どうやら、解体にも莫大なお金がかかるようで当分解体の危機はないのかな?
出来れば、上の階もみたいですね。
補強工事入ってないなら床が怖いが。
私はとりあえず、ここでツアー的に回るのは電車の辺りを残すだけかなーと思っていました。
しかし、まだデザートが残っていたのであった!!
そのデザートとは・・・!?
思ったより長くなりそうなのでいったん区切ります。
更新早めです。
距離はどんだけ歩いたの?っていうのは次回に発表します。
そう!お話したいのは、軍艦島Tシャツ!
世界遺産登録されましたね!おめでとうございます。
登録される前に、ほぼ確定記念で販売される予定です!
申し込み期限は、7月15日正午
詳細は、J-heritageさんのサイトへ! → J-heritage
まぁ、そんな事をはさておきだ。
今回は6月21日に行われたJ-heritageさん主催【大阪戦争軍事遺跡探検隊】に参加させていただきました。
京橋駅に集合と言う事で、前々職で最後によく利用していた駅だったのでまた自信気に出発。
広いけど、どこ集合かと思いスマートフォン方にウロウロとしていると前回からのツアーの方と合流し一緒に待っていました。
しかし、今回はなんと37名という大人数の為広い場所に集まっていたようです。
前畑温子さんが来てくださりありがとうございました。
そして総勢37名という多さにJ-heritageさんの恒例となっている自己紹介は割愛。
でも、お会いしたことがある方々がいらっしゃりちょっと一安心。
あ、今回も私は神子畑Tシャツ来てました。
前畑洋平さんは軍艦島のTシャツでしたよ!ワンダージャパンの時にTシャツは見た事あったのですが本物初めて見てちょっと感動。
あ、その軍艦島のTシャツの話は後ほど。
話を戻しまして今回お話をしてくださったのは三宅教授です。
後で聞いた話ですが、小学生教師向けに似たようなツアーを一日で2回行ったそうです。
まぁ、どれくらいの距離があるかもまた後ほどです。
お天気も良く休日と言う事もあり、やはり都会は込んでいらっしゃった。
場所を代えて広い場所へ。

そこから見えるはテレビ局やビルが見える場所。
実はここが大阪砲兵工廠があった場所なのです。
大阪砲兵工廠って?
となる方もいらっしゃるのではないでしょうか?・・・いや、正直に言いましょう。
実の話をしますと、私は今回第四師団の名前しか知らず参加してます。
よく、知識がなく恥ずかしい思いをすると聞きますが、知識が無く知らない知らず参加したことを悔しく思います。
何故、事前学習をしないのか。それは、もう学生時代に見たくて仕方なかった第四師団しか頭になかったからであろう。
はるかよ、今から学ぶべし。
説明させていただきますと、軍事工場です。
太平洋戦争(1941年)~終戦(1945年)まで主に大口径の火砲兵器や弾丸、重機製造を似たなったアジア最大規模の施設です。
そして、戦前中の日本で重工業分野におきトップクラスの技術と設備をもっており他にも宮公庁や民間からの要望を受け兵器以外の金属製造もしていました。
働いている職人さんを職工さんと呼んだそうで当時とても誇れるものだったそうです。
つまり「うちの、お父ちゃん大阪砲兵工廠の職工さんやねん!」って自慢できたそうです。
私は最初に話を聞いたとき、やっぱり隠してかないといけない事なのかと思っていたので驚きました。
大阪砲兵工廠となったのは1879年(明治12年)であり1870年(明治3年)に造兵司として設立された様です。
明治~昭和の建物となります。
今や跡地って言われても残っているものも少なく現地に行ってもあまりピンと来ないと思います。
大阪公園一部や大阪ビジネスパーク、JR森ノ宮の辺りまで広がってました。
その頃の地図には環状線では無く城東線と書かれています。
終戦を告げられた8月15日の前日、8月14日に大阪砲兵工廠はへ空襲がありました。
13日に最終宣告としビラがまかれたそうです。
そのため、一般の職工さん達は休みであり責任者や偉いさんがのこっていました。
B-29の攻撃により、大阪砲兵工廠は80%が崩壊し、死者382名と報告されていますが総数は分かっていないようです。
その時の流れ弾が電車に乗っていた人々を非難誘導していた京橋駅近くに落ちて約500名の方が亡くなっています。
実際のところ、何人亡くなられたか分かっておらず推定です。

テレビ局へ向かう手前の青色の歩道橋を渡らず歩道を歩いて行った場所にひっそりと慰霊碑がります。
三宅先生が戦後たてれた場所がここしかなかったのかもしれないとおっしゃっておりました。
確かに、工廠が80%崩壊と言う事から周りの状状況も察することが出来ますね。
慰霊碑の年代は別々であり毎年慰霊祭が行われいるそうです。

左横には立札がありました。
少し戻って、歩道橋を渡り進みます。
このあたりも、工廠跡ですって教えてもらいながら歩きますが見上げ首が痛くなるほどの大きな高いビル。
大阪住みですが大阪の田舎に住んでいる人間には、目が点になります。
しかし、暑い。
帽子はやっぱり必須だなーと思っていると、遠くに大阪城を発見。そして、少し雲行きが怪しい。
本当なら今日は雨予報であり今朝は雷がなっていたのである。
体調的には曇ってる方がいいのだろうけど、写真を撮るとなれば雲はノーサンキュー!
まぁ、それでもビルの青い空が反射しているところ一雨はなさそうである。

そして、見えてくる何か怪しげなモノ。
だいたいの方が察している。あれは、もしや・・・!
前畑温子さん「はい!それでは、おやつタイムにしたいと思います!」
そして、始まるおやつタイム!
何か気になるが、おやつ!
ツアーのおやつは、前畑温子さんが決めてくださっているようです。
さぁ、今回のおやつは~

君が代カステーラ!
東京焼きと言って全面焼いているのです。
カステラといえば、長崎!ってイメージですが、どうやら豊臣に献上していたらしく卵のキミと君を掛けて君が代だそうです。
あぁ、すみません。手は気にしないで下さい。手は。
ちょっと休憩がてらに石段に座る。
そして、唐突に始まる脳内中二病。
ふっ・・・この農業・食品製造科の私を楽しまてくれるのか。
よろしい、かかってこい・・・!!
・・・う、美味い!!美味いぞ・・・!!(脳内ミスター味っ子)
カステラと言えばボソボソとし口の中に残るはずがさっぱりとし、味が濃く美味い・・・!!
前畑洋平んさん「はい、それでは残りのカステラをかけクイズ始めます!」
そして我に返る。
あぁ、食べたいがちょっと太陽にやられた。
ここは自業自得と見学側へ。

そしてここへつながる。
これは、なんでしょうかというクイズ。
これ、向う側ふさがっていますが、荷物運搬の出入り口なんですね。
鳥先輩が現在では門番してくださってます。お疲れ様です!
で、正解者は前畑温子さんとジャンケン!
一番、平和な方法だーと終わることには回復。
ばてるのも早けりゃ、回復も早いのである。
次は大阪城の方面を目指してあるき始めます。
あぁーそういや、高校生時代に「大阪人に今更大阪観光とかww」ってふざけてたなぁーとこのあたりで思い出し始めます。
そう、ほんの数年前にこのあたりを通っているのです。
そして、そのころは確か、第四師団という名前を知っていただけでどれがそうなのかどこにあるかなんて全く知らなかったのです。
というよりは、当時遺産にはそこまで興味が無かったっていうのが正しいかもしれません。
遺産では無く廃墟としてみたいのですね。

だから当時は、見向きもしなかったのでしょう。
砲兵工廠跡と書かれた石版。
三宅教授の話を聞くと、これは移動しここに来たそうです。
じゃ、なぜ移動したかというと、知っている人も多い建造物が関係しています。
大阪城ホールです。建設するときに移動されちょっとずれているのです。
大阪城ホールの建っている場所、そこも大阪砲兵工廠だったのです。

裏には説明が書かれいますね。横に立て看板を置いて※少し位置は異なりますって事と当時の地図とかあればもっと見てくれる人が増えるかなーとか思います。
今でこそ、なんだなんだ?と裏まで見るようになりましたが、学生時代は「あーどっかの会社の名前じゃない?主張激しいよなーw」とか言ってそうです。あぁ・・・それは恥ずかしい。
そういやこのあたりってランニングコースにもなっているのですね。
学生時代のはるか氏よ一つ言わせていただこう、後に悔いるのであると!
まぁ、私の学生時代の話はさておき。
どんどん進みます。
あれは、だいたい大阪城ホールの裏辺りでいいのでしょうか。
そこで当時の大阪砲兵工廠の写真を見せていただきました。


おぉ!貴重な写真ばかりだ!
白黒が当時の写真で、カラーは壊される直前、あるいはその途中でしょう。
三宅教授、当時急いで現場へ行ったそうのなのですが、付いた頃ちょうど解体が始まったそうです。
そして、当時ここで働いていた人達は自分ちが人の命を奪う兵器を作るという気持ちで作っていたのですかと聞いたところ、「全くもってそんな気持ちは無かった」とお話された様です。
用途は分かっていても、人の命を奪うとまで考えて作っていたわけではないのです。
学びが無い私が考察するのはどうかなと思いますが、良いものを作るっていう意識だったのかなとお話を聞いていておもったのが素直な感想です。
お話の後は休憩タイムです。
しかし、このあたりは蚊が多い。また石段みたいなトコに腰かけ荷物を下ろす。
今回、リュック型に変更したのですがそれでも右肩が痛い。いや、何時もよりまっしか・・・
なんて考えていたら、前畑洋平さんがお話に来てくださいました。
「ブログにこの前の尼崎の事書いてくれてありがとうございます」と。
いやいやいや!お礼を言うのはこちちらですよ!連れて行ってもらって!とコミュ障でどもっておりながらも産業遺産の記録の話を少々。
あぁ、なにやってんだちゃんと話せはるか!
ってやってる間に、次の場所へ。
さっきのふさがれた運搬トンネルの裏を見に行きました。

おぉ、見えない!いや、見えたんですが写真が悪くこちらを選択しました。
ってか、蚊!何回、私の血を吸うんだ!と早々と撤退。
なんか足首一周かまれてそうですw
ムヒもって来るべきだったと思いながら大阪城を目指します。

流石、休日。人がたくさんだ。
海外から来ている方をみて、そういえな大阪城は海外から観光に来た人のがっかりスポットって聞いたことあるなーと思い出しました。まぁ、だってさー、白の中にエレベーターついるんだもんね。
RCだったかな、だもんね。
2回くらい大阪城上っているはずなんだけど城というより博物館な気持ちだった。
なにより、私も幼少期城の中にスクリーンがあったことに軽いカルチャーショックを受けたものである。

いや、でもやっぱり迫力あるな!
そして、やっぱり、テンション上がるわ!とシャッターを切るはるか氏だった。
さて、今回ここに上りに来たわけじゃない。
大阪城の裏、えっと確かあれは受水槽の機械あった場所だったかな。ともかく、まず
一般の観光なら行くことのない場所であろうへ案内していただきました。

あ、いやこれは身長が足りないのではなく高いとこにあるんです。
この向うに水を溜めていた場所があるようです。
そして次は私の後ろにある大阪城が乗っかる石垣に話は変わります、

今回は分かりやすく赤で丸を付けてみました。
分かりますか、このデコボコになっているのが。
幼少期のはるか氏は、「積んだ人へたくそやなー。ってか遠足の絵大阪城書くのに石描くの面倒やん。」って描いているのを思い出しました。まぁ、絵に描くのは大変ですけど。
そして、これは石積んだ人が下手なわけじゃなく、このあたりに落ちた爆弾の振動や爆風でこうなっているのです。
建っているには問題ないそうなので、このままだそうです。

ここは一部どう考えても新しいですよね。
ここは修正したようです。しかし下からはめるってすごいですね。
ちょっと、ひやっとします。
そして、ぼやーっと歩いていると「リュックに変えたんですね!」
前畑温子さんが!そういや、受付して以来お話してないと三脚とかいろいろ教えていただきました。
そうなんです、実は三脚を持ってないという。デジカメの三脚はるんですけどね。
そうか、次は三脚だな。
ん・・・あ、あれは・・・!

お待たせしましたさっきから言っている第四師団でございます。
見た事ある!って方が多いですね。
そうですね、旧大阪市立博物館です。今日は休日ってこともあり中と入り口でお土産屋さんしてました。
大阪らしい土産がありました。

うん、これですよ。これ!
さぁ、これは何積みに・・・えっと・・・同じ面が向いているから・・・平積みだ!
って一人で感動。
そして、第二回おやつたいむ。

次は、おまんじゅう!
あ、手とファイルは気にしないでk(ry)
おぉ!おまんじゅう大好き!こしあんだ!美味い!
そして今回もあまりをクイズで!
今回は元気だったので参加しましたが惜しくもざんねん。
これ、本当美味い。君が代とセットで後で店しらべようと心にひそかに決めたのであった。

第四師団のなかです。おしゃれだな、この照明。
本当、入り口と入ってちょっとしか使われて居ないからもっと使い道ないかなーと。
どうやら、解体にも莫大なお金がかかるようで当分解体の危機はないのかな?
出来れば、上の階もみたいですね。
補強工事入ってないなら床が怖いが。
私はとりあえず、ここでツアー的に回るのは電車の辺りを残すだけかなーと思っていました。
しかし、まだデザートが残っていたのであった!!
そのデザートとは・・・!?
思ったより長くなりそうなのでいったん区切ります。
更新早めです。
距離はどんだけ歩いたの?っていうのは次回に発表します。
そう!お話したいのは、軍艦島Tシャツ!
世界遺産登録されましたね!おめでとうございます。
登録される前に、ほぼ確定記念で販売される予定です!
申し込み期限は、7月15日正午
詳細は、J-heritageさんのサイトへ! → J-heritage